信長の野望・覇道 時代背景

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先にゲームに入ってから歴史が知りたくなるプレイヤさんのためにまとめました。

織田信長はいつの人?

16世紀(今からおよそ500年前)の日本人になります。
NHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」の鎌倉幕府の次の幕府が室町幕府であり、その幕末が織田信長の活躍した時代になります。
鎌倉殿の13人の時代から数えると200年後の未来になります。
(「麒麟が来る」の主人公の明智光秀とは同時代の人になります。)


「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは徳の川」


と言われているように天下統一の基礎土台を作ったのが信長になります。
ただし、信長に最初から天下統一の明確な意思があったかは謎で、天皇や将軍が治める近畿エリアの平和が維持できれば良いぐらいにしか思っていなかったと言う説も最近は有力なようです。

下剋上の戦国時代という名前も名ばかりで、天皇や幕府の目が行き届かない地域の狭い範囲では家臣が主君を殺して成り上がることができたかもしれないが、日本全体の大きな視点で見ると、同盟を組んでどんどん天下統一を進められる訳ではなかったようです。
あくまでも天皇、将軍とその下にある守護大名の秩序に縛られていたようです。
室町幕府は厳格な血筋による身分制度の秩序を作っていたので、必ずしも能力の高い武士が要職に就きにくかったことが弱体化の原因らしいですが、それでも上杉謙信を関東管領の上杉家の養子に迎えるなど幕府に味方してくれる大名を取り込んだようです。
また信長が京に上洛したのも将軍候補の足利義昭を助けるという名目でしかなかったようです。
その後、ご存知のように信長は義昭との関係が悪くなり、何度も命を狙われながらも将軍殺しの汚名を被ることを警戒して京追放に止めたようです。
この時義昭の信長包囲網の誘いにのってそれまで信長と親戚関係になっていた武田信玄も上洛の機会に乗ったけれども、その武田信玄も日本全国の天下統一をしようと思っていたかは最近の学説では疑問視されています。


将軍を殺せば、他の大名がそれをきっかけにして手柄を立てて出世できる好機として信長追討軍として立ち上がってくることを信長は一番恐れていたのかもしれません。

それまで近隣とも親戚関係を築いて平和的にやって行こうと思っていた信長が急に天下統一を意識して動き出したのは室町幕府の代表者である義昭との関係が悪化していつでも諸大名が義昭を助けるという名目で敵対してくるようになってからのようです。義昭は京を逃れても四国九州で大名に匿われ、それを権威の拠り所として信長に敵対してくることはもはや自然の流れでした。唯一天下統一して全ての大名を信長の配下にしてしまわない限りは。

それまでの信長の外交方針は養女を武田信玄の後継者の武田勝頼に嫁がせたり、家臣もそれぞれの大名の家臣同士で縁戚関係結んだりして仲良くやって行こうとしていたが、手柄を立てて認めら立身出世できる機会が現れた場合は簡単に覆されてしまうものでしかなかった。純粋な信長は最初から浅井家を滅ぼすつもりで妹もお市を嫁がせたわけではなく、頼もしい弟として信頼していたと思われる。結果的に裏切られ続けて徳川以外に周りを全部敵にしても這い上がろうとして武田信玄も上杉謙信も病気で他界し災難を脱したと思われた矢先に左腕の明智光秀に嫡男もろとも京都本能寺と二条城でそれぞれ暗殺されました。

明智光秀も室町幕府の敵である信長を討って手柄を立てれば室町幕府の元で出世できるとチャンスを狙っていたのかもしれません。
しかしながら武田信玄や上杉謙信や毛利元就が存命ならばまだしも織田家と徳川家ですでに日本のほとんどが統一されている中では織田家内部でのライバルとの競争でしかなく、主人殺しの汚名を乗り越えてまで光秀に支持者は現れませんでした。
この頃義昭は毛利から島津へ頼る先を変えて室町幕府再興を考えたが、四国や九州の大名も勝ち目のない戦いにはあまり前向きではなく、信長の実質の後継者となった豊臣秀吉に降参したので、義昭も幕府再興は諦めて将軍職を天皇に返上することになりました。秀吉は室町幕府を解散させてその将軍に相当する地位を関白になって引き継いだと言うのが本当のところらしいです。

秀吉は血筋的に弱かったにも関わらず、公家の猶子(養子)にしてもらうことで関白になったようです。

また秀吉も信長亡き後、敵討ちをしたにも関わらず、織田の中で信長の当然の後継として認知されていた訳でなく、あくまでも丹羽長秀の派閥に属して丹羽長秀VS柴田勝家で賤ヶ岳の戦いに勝利してその後丹羽長秀の立場が織田家の中で筆頭になってから丹羽長秀を失脚させて成り代わった背景もあるようです。
柴田が担いでいた織田家の三男の信孝は能力は高かったものの、母親の身分が低かったので信長の生前の時から待遇では差別されていたらしいです。
そして賤ヶ岳の戦いの戦後処理では信雄に信孝を処分するように秀吉は働きかけました。
秀吉は信長に跡継ぎがいなかったから当然に誰からも認められて後継者になったわけではなく、信長の息子を含めて強いライバルを順番に戦争に巻き込んだり追い込んで失脚させたり戦争責任取らせて切腹させたりして計画的に後継者に成り上がったのです。

あと秀吉も家康も失脚後の武田や今川や上杉や北条の生き残りや臣下を上手に家来として取り込んで、朝廷や公家との間の使節などに重用しているようです。

ところで最後に鎌倉殿の13人の時代とこの時代の繋がりという意味ではその時代の鎌倉幕府側の公式な歴史書である「吾妻鏡」を徳川家康は愛読していたそうです。歴史に詳しかったからこそ武力だけでなく文化や外交の意味でも天下統一をなし得たのだと思われます。

武力で制圧するだけではその征服した場所から真の意味で利益は得られず日本一の銀山や商人や職人たちを手中に押さえるからこそ軍団人数だけでなく技術力経済力でもライバルよりリード出来たと言えます。

秀吉が亡くなって関ヶ原の合戦が石田三成と徳川家康の間で起こりますが、正確には秀吉の小姓だった三成ごときが家康のライバルに立てるような立場では全くなく、本来の西軍の大将は毛利輝元がなるはずでした。ところが輝元はリーダーにはならず黒幕の三成が実質のリーダーにならざるを得ませんでした。
戦後処理で三成は斬首されましたが、それ以上に徳川側にとって重視したのは豊臣派の大名の所領を大きく削ってしまうことでした。

徳川と豊臣の最終決戦の大坂冬の陣でも徳川は西洋での最新クラスの大砲を渡来人達に作らせていて援用したようです。

大坂夏の陣で豊臣はついに滅びますが、家康は秀吉の後を継いだ豊臣秀頼の幼い男の子の存在を徹底的に追跡して殺しました。
その一方で石田三成の息子たちには罪をあまり問わず許されて青森の南部家に仕えたらしいです。

家康が愛読したという吾妻鏡は漫画にもなっているので興味ある方は竹宮恵子さんでググって見ましょう。

 

2023年大河ドラマの主人公は徳川家康

『どうする家康』が正確なタイトルらしいです。楽しみですね(^^)

年表

1534 織田信長、尾張(愛知県)の織田信秀の子供として生まれる。
幼名は吉法師

1548 信長、美濃(現在の岐阜県)の斎藤道三の娘と結婚する。

1551 父信秀が亡くなり、信長織田家の家督を継ぐ。

1557 取って代わろうと謀反を企む弟信勝を病気と偽って呼び寄せてだまし討ちにする。
1560 桶狭間の戦いで信長、今川義元を討ち取る。

1568 足利義昭を助けて京(京都府)へ上洛する。
義昭15代将軍になり副将軍や管領を信長に誘うが、信長は断っている。

1570 徳川織田連合軍が浅井朝倉連合軍と姉川の戦いで勝利する。

1571 比叡山延暦寺を焼討ちにする。

1572 三方ヶ原の戦いで織田徳川合同軍が武田信玄に敗れる。
1573 武田信玄が病死

1582 本能寺の変で重臣の明智光秀に襲われて自害。
間も無く京にいた嫡男の信忠も光秀に襲われて自害。

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